僕のリヴァ・る

DVD鑑賞。

 

鈴木拡樹くんの出ている作品が観たい! 

と、欲望のままにぽちぽち円盤に手を出しているわけですが、お陰で今まで手を出してこなかった舞台を見ることができるのは幸せだなと思った作品。

東宝や四季なんかはちょいちょい見てるんですが、小劇場系と言うのでしょうか、こういった作品を観に行くことはほとんどなくて、知識もなくて、だから拡樹くんが出ていなければ、人に勧められない限り知らないままだったろうな。

360度観客に囲まれるセンターステージという形は、役者さんにとってはどんな気持ちがするものなんでしょう。

お客さんも、席の位置によって見える景色が違って役者さんの表情の見え方も変わって、同じ舞台を見ているけれど、違うものを見ているという不思議な空間になるんだろうな。

 

リヴァる。ライバル。兄弟をテーマにした、3作で綴るオムニバス作品。

兄弟という、恐らくは人生で一番最初に出会うであろうライバル。

血の繋がりによってどうしようもなく一番傍にいて、無条件に愛しかったり、それ故に憎しみが込み上げたり。

ある種の特別な関係である兄弟の形を、3作で描いていく。

兄弟関係っていうキーワードだけで個人的にはかなり期待が募るわけですが、3作が3作とも形の違う兄弟の在り方を教えてくれました。

 

1作目 

オリジナル脚本 はじめてのおとうと

生まれて間もない弟(小林且弥)と、突然現れママを奪っていった存在に憤る兄(安西慎太郎)。

赤ちゃんの人形と子供の人形を使い、彼らの内なる声を舞台上に登場する小林さんと安西くんが演じる。

赤ちゃんの心の声で真っ先に思い出すのは映画ベイビートークなんですが、ワイルドな風貌の小林さんの口から「バブバブ」という言葉が飛び出すそのアンバランスさがおかしくて、そんなんずるいわと思いながら一気に引き込まれた。

(小林さん、ペダステのふくちゃんしか知らなかったので、誰この男臭いイケメン…と、ときめきました。全然印象が違う!(当然ですけど))

一方の兄。ベッドの中にいる弟をじっと見つめながら、こいつが来たせいでママが俺に興味を示さなくなった…こいつ一体なんなんだよ、と心の不満をぶちまける。

弟は弟で、さっきからお前なに馬鹿面で見てるんだよ。おむつ変えろよ。おむつ! ママどこ行ったんだよ。こんな変なやつとふたりきりとか、不用心にも程がある。お前誰だよ! と、ママでもパパでもばあばでもない謎の存在に苛立ちまくり。

兄も弟も心の声はやかましいほどなんだけど、現実世界ではもちろん意思疎通できていなくて、この会話の擦れ違いも面白い。

 自分を守ったり甘やかしたりしない、体の大きさもママやパパに比べたら随分小さい、とても不可思議な存在。

子供の頃の自分の記憶はもうないけれど、確かにそんな風に思うかもしれないなあと。

人形の小道具も上手に使われていて、観てる内に段々、小林さんは口の達者な赤ちゃんだし、安西くんはちょっとだけ年上のまだまだ甘えたい盛りのお兄ちゃんなんだって思えてしまう。

ほんとムカつく存在だと思っていても、でも、弟のおむつは変えてやらなきゃいけないとは認識していて、自分でできないまでもおむつ持ってくるところとか、お兄ちゃんの複雑な心の動きが出ていて、見てて愛しい。

でも、いいことをしたら褒められるのか、と認識した途端、それを強烈に意識したりするのは子供らしいあざとさ。子供がえりも計算の内とか。

拡樹くんがこの子供たちの若いパパをやってて、これがまた見事にちゃらそう(笑

弟にはあんまり信用されていない系のパパ。ばあば(山下裕子)の存在で子供たちが安心した風になるのがパパの立ち位置をよく表してるよね。ミルクひとつまともに作れない。

しかし赤ちゃんをあやすときのあほっぽい動きはなんだ! 

心底げんなりした様子の小林さんは何度も見たいんだけど、あのあほみたいな動きして満面の笑み浮かべてる拡樹くんも何度も見たい。というか、何度も見たよね。

馬鹿だし、どうやら今後自分の領分を侵してくる存在だと思いつつも、それでも相手のことを

「嫌いじゃない」

と、兄が言う。

「試合開始だな」

「フェアプレーとばかりはいかないかもしれない」

「でも、いい試合にしよう」

不敵に笑って(人形の)額をくっつけあう場面。

あの宣戦布告はいいね。

見ているこっちまでにやりとした気持ちになる。

好敵手、同士、相棒、仲間。

これからの長い道のりを共に歩むであろう彼らの関係に、どんな言葉を当てはめようか。

すべてひっくるめて、彼らは兄弟である。

 

 

2作目

三好十郎さんの「炎の人」を下敷きに、

フィンセント(鈴木拡樹)とその弟テオ(安西慎太郎)、彼らを見守る画家のゴーガン(小林且弥)の話が展開する。 

このお話、青空文庫で全部読めるんだな。

1作目とは打って変わって重苦しい空気の漂う空間。

同じ場所なのに、同じ人たちが演じるのに、そこはもうさっきとは違う場所、違う人たちが動いている。舞台って面白いな、と端的に思わせてくれる瞬間。

 

絵を描くことしかできないフィンセント。ぼさぼさの頭。絵の具で汚れたよれよれの服。

そんな兄の才能を認め、生活の面倒をみる弟テオ。彼らを見守る絵具屋の女主人(山下裕子)。フィンセントの才能を知り、テオの相談に乗るゴーガン。

フィンセント見てると息苦しいような気持ちになった。

才能があるって、決して素敵で素晴らしいことばかりじゃない。

描くことに出会い、描くことしかできないフィンセントは、ある種呪われている。

描く絵が一枚も売れず、弟に迷惑をかけていることを心で悔みながらも、描くことをやめて仕事をしに出かけるという選択ができない。絵が、彼にとってはすべて。

自身を疫病神だと吐き捨てるように言いながら、それでもカンバスの前から離れられない。

繊細で、意固地で、プライドが高く、激情家で、情緒不安定で、孤独なフィンセント。

フィンセントにとって、生きることは描くことで、描けなくなったらそれはもう死なんだろう。だからどれほどそれが辛く苦しいことでも、人が空気を必要とするように、描き続けるしかない。その行き辛さがひしひしと伝わってきて、見てて苦しかった。

 

弟テオは兄であるフィンセントの才能を愛し、その夢を応援したいと、自身の生活を犠牲にしてまで手助けするけれど、次第にそんな生活に疲れて、兄の存在を持て余すようになってしまう。

相手が大事で、愛していることに嘘はなくても、気難しく繊細なフィンセントとの生活が精神的、肉体的な負担になることもまた事実。

ゴーガンに堪らず胸の内を吐露するテオを、誰も責めることなんかできない。

どっちも本当の気持ちだっていうことが理解できてしまうから。

「兄の中には二人の人間がいる。ひとりはおとなしく心の弱い子供。もうひとりは粗暴で自分勝手な怪物。両方がいつも戦っていて、つまり兄は自分自身の敵であるとも言える」

ゴーガンはフィンセントのことを「微塵も悪意のないエゴイスト」と評す。

拡樹くん演じるフィンセントは、扱いに困る繊細さと自己中心さ、そのどちらをも兼ね備えていた。

ゴーガンの勧めもあり、テオはフィンセントとの同居生活を解消。

 

その後フィンセントはアルルに向かい、ゴーガンと共同生活をすることに。

フィンセントの手紙によると最初は順調そうに見えたふたりの生活だったけれど、

最終的には価値観の相違が顕著になり、口論になって、フィンセントは感情のたかぶりのままに自身の耳を切り落とす。

ゴーガンの容赦のない指摘は、フィンセントの弱く愚かしい心を壊しかねない威力を持っている。

なにかを恐れ、逃れるようにパレットナイフを耳に当てたフィンセント。

「すまないテオ!」

叫びながら、描いた絵にナイフを突き立て、踏みしだくフィンセント。

理性を失い、一線を超えて狂気に至る鈴木拡樹の姿は幻の城でも見たけれど、あちらは狂気の様に苛烈さと鮮烈さがあり、美しさすら孕んでいた。

一方でフィンセントに漂っているのは、ひたすら、重苦しさ。苦しみの果てにこの現実から逃れようともがき、逃げられず、理性と狂気の間を行き来する、哀れみすら感じる姿。

命を削るように絵を描いて、描いて、描いて、そうしてある日、自ら命を絶ってしまう。

 

このお話を最初見た時には、フィンセントの生き辛さの方が目について、苦しいなあという思いでいっぱいで兄弟という関係性を考えて見ることがなかったんだけど、

今こうして感想を書いていて、改めて、テオという兄弟があったからこそ、フィンセントは絵を描くという生き方が与えられたんだなとしみじみ思ってしまった。

家族でも多分、フィンセントは持て余す存在だと思う。

けれど、そんな中でひとり、テオは不思議な因果で兄弟となったフィンセントのことを、扱いづらい人間だと誰よりも知りながら、最後まで愛想を尽かすことができなかった。

フィンセントが兄じゃなければテオにはまた全然別の人生があったかもしれないんだよな。

それが脳裏を掠めたこともあっただろう。

そしてテオという理解者がいなければ、フィンセントは絵の道をどこかで諦めていたかもしれない。

ああでも、フィンセントはそれでも描いたかな。彼は自分の運命に「出会って」しまった人だろうから。

なんかホント、兄弟って因果だな……。

 

あ、舞台でフィンセントが向かうカンバスは枠だけで向こう側が透けて見えるんだけど、その枠の中には見ている人の数だけの絵があるんだなぁとぼんやり考えた。

拡樹くんや安西くんの目には、そして小林さんの目には、そこにどんな絵が映っていたんだろう。 

 

3作目

アルトゥール・シュニッツラーの短編小説「盲目のジェロニモとその兄」より。

3作の中で一番心に残ったお話。

山下さんが、弟が盲目になる場面を朗読するんだけど、

少し低めで、淡々と、落ち着いた聞きやすい声だったな。

 

自身のせいで失明した弟ジェロニモ(安西慎太郎)のために生涯を捧げる決意をした兄カルロ(小林且弥)。

ふたりは物乞いをしながら生きている。

けれどある日、通りすがりの人物のちょっとした悪意によってふたりの関係に亀裂が入る。

盲目の弟に近づいた謎の男(鈴木拡樹)がこう囁く。

「君の歌声が素晴らしかったから、20フラン金貨をお兄さんに渡したよ。騙されないようにね」と。

たったこれだけ。

けれど、投じられた小さな小石が、ゆらり波紋を広げるように、ジェロニモの心に宿った疑いの気持ちはどこまでも広がっていく。

存在しない20フラン金貨について問われ、正直に答える兄カルロは、弟の憤りの理由に気づかない。

幼い頃に自分がジェロニモを失明させてから、死にたくなるような罪悪感を押さえつけ、すべてを弟のために捧げて生きてきたカルロは、それらがすべて徒労だったのだと知る。

もういっそジェロニモを捨てていこうか。そうしてひとりの惨めさや、本当に人に騙されたことを知った時、ジェロニモは初めて自らの過ちに気づくだろう。

過ぎった考えを、しかしカルロは捨てる。

それでも、彼にはジェロニモしかなく、ジェロニモにもカルロしかいない。そのことをよく知っていたから。

現状を打開するため、もう一度元に戻るため、カルロは20フラン金貨を盗むことにする。

ところが、手渡された20フラン金貨に、ジェロニモ

「俺には分かってたんだ。20フラン金貨を兄さんが持ってたこと。兄貴はいつでも嘘をつく。もう数え切れないほど。この金貨だって、本当は隠しておくつもりだったんだろ。俺が疑いを見せたものだから、今回の20フランだけは拝ませてくれた。そういうことじゃないの」

そう、冷たく告げる。

「お前、俺のことずっと泥棒だと思ってたのか」

その発言に、遂に、打たれたように言葉を失うカルロ。

長い長い沈黙が辺りを包み込み、その沈黙に、カルロの受けた衝撃の大きさをひたひたと感じてしまう。

静けさが深ければ深いほど、カルロの内を荒れ狂う感情の嵐が激しいように思えて、彼があの静けさの中で、愛情も憎悪も悔しさも怒りもやるせなさも失望もなにもかもを抱えて、そうして最後に呑み込む姿に息を呑んでしまう。

この長い長い沈黙の中で、カルロの心はゆっくり死んでしまったんじゃないか。

光のない目で立ち上がり、ジェロニモの前に立ったカルロはこう告げる。

「腹減ったか」

 

このひと言を口にするまでにカルロが呑み込んだあらゆる感情を思ったら呆然としてしまうわ。

それでもカルロはジェロニモを捨てていかない。

 

その時、憲兵がカルロたちを呼び止める。

お前たちが泊まった宿屋の客の財布から20フラン金貨が消えた。ちょっと話を聞かせて欲しい、と。

 

カルロはその言葉に、小さく笑う。

笑いの発作は収まらず、自分を笑うように肩を揺らして。

そして突如、獣のように咆哮する。

叫びに込められたぐちゃぐちゃの感情が空気を震わせて、その鋭い刃は観客の心も貫いただろう。

絶望、やるせなさ、自嘲、怒り、どろどろの感情が、カルロの咆哮に詰まっていた。

心にひりひりくる叫び声。

 

「弟がいなければ俺は生きて来れなかったんです」

 

ジェロニモはその時初めて、カルロの言葉に嘘がなかったことを知ったはず。

ジェロニモの胸に巣くっていた兄カルロへの疑いは、彼の不安の表れでもあったんだろうと思う。盲目の自分を、兄がいつ捨てるかもしれない。兄を信じ切ることのできない不安。

どれほど相手を疑っても、憎んでも、絶望しても、けれど彼らは互いなしには生きていくことができない。

ジェロニモの手から20フラン金貨が転がり落ち、震える手が兄カルロの頬を包む。

 

言葉なく、けれど確かに心が触れ合っていることを感じるこの場面がなによりも心に残って、カルロの震える肩とジェロニモの小さく震える口元に、どれほどの感情が乗っていたか。観終わった後も余韻が抜けなかった。

 

 

小林さんの存在感は圧倒的だったな。3作品目のカルロの咆哮がとにかく圧巻。

静と動。押し込めた思いと、溢れ出す感情。そのふたつがとても自然に入ってきた。男臭くてかっこいい方だということも今回承知した。

自然さという意味では、拡樹くんは「舞台に立っている感じ」がするかも。

でも、いつの間にか彼の世界にぐっと引きこまれてしまう。いつか、すごい悪人やって欲しいな。狂人じゃなくて正気を保ったままの本当の悪人。見てみたい。

3作目の兄弟を引っ掻き回す人物、結構好き。

安西くんは初めて見た方だったんですけど、彼は小林さんとも拡樹くんともごく自然に隣に立っているなあと。誰と立っていても、その場に馴染んでいると言えばいいのか。つまり、上手ってことなんでしょうね。3作の中ではやっぱり最後のジェロニモが私の中で燦然と輝いている。

 

特典映像に座談会が入っていて、これがとってもよかった。

裏側を見せることを役者さんたちが良しとしているかどうかは分からないんだけど、

その人たちがなにを考え、なにを感じ、それをどう表現しようとしたのか、その人の内面を少しだけでも知りたいなと思ってしまうので、パンフレットも写真よりは本人コメントやインタビュー、対談多めが好きです。

拡樹くんと安西くんが昔から一度会ってみたくて、共演したかったんだけど、夢が叶った! とふたりできゃっきゃしてたのが本当に可愛かった。

役作りについてふたりが真剣に答えた後に小林さんが、「俺役作りしたことないからよく分からん」とざっくり発言したり。

あ、小林さんが拡樹くんのこと新人類と称していたの笑った。

袖での糖分摂取量が半端ない、って。

それから、本題とはまったく無関係に、突如行われた安西くんによる、「映画ギルバート・グレイプより、爪を噛むレオナルド・ディカプリオの物真似」が似ていて笑った。好きな映画の名前が突如出てきたのでそれが単純に嬉しかったり。

三者三様の作品に対する考え方が見て取れたり、三人の間に漂う空気が面白かったり、とても満足度の高い特典でした。

ありがとうございます!